最新号の「致知」で
作家・五木寛之さんの記事の中に
モハメッド・アリのことが書かれていました。
記事の内容の前に
モハメッド・アリ
ボクシングの元世界ヘビー級チャンピオン
「蝶のように舞い、蜂のように刺す」
独特のボクシングスタイルが有名ですね。
1996年アトランタオリンピック開会式で
最終聖火ランナーで
パーキンソン病のアリが登場した時は驚きました。
日本では1976年、日本武道館で行われた
「格闘技世界一決定戦」
アントニオ猪木さんとの 異種格闘技戦が有名ですね。
わ、若っ!
ケンタッキー州ルイビルの貧しい黒人街で生まれたアリが
ボクシングと出合ったのは12歳の時。
アリが自転車を盗まれた時、警官が
「取り返したければ体を鍛えろ!」
とボクシングジムを紹介してくれたのがきっかけだったとか。
映画ロッキーのモデルとなった
「ロッキー・マルシアノ」の試合をラジオで聞いて
チャンピオンになろうと心に決めたアリは
瞬く間に頭角を現し
そして1960年18歳の時、
ローマオリンピックで金メダルを手にしました。
しかし、故郷で待ち受けていたのは
祝福や賞賛、尊敬ではなく
「差別」 だったと言います。
ある日、
レストランに入って金メダルを見せて名乗っても
「ここは白人専用、黒人の来るところではない」
と追い出され、
悔しさのあまり、その帰り道に
オハイオ川に金メダルを投げ捨てた話は有名です。
プロ転向後もアリの快進撃は続き
1964年、22歳の時にヘビー級のタイトルを奪取。
そして、チャンピオンになった翌日の記者会見で
白人が付けた奴隷の名前
「カシアス・クレイ」
を捨て
「モハメッド・アリ」
になると宣言。
1966年、アリに徴兵令状が来た時、
アリは人々の前で徴兵カードを焼き捨て徴兵拒否。
チャンピオンベルトとボクシングライセンスを剥奪され、
その替わり、
ベトナム反戦運動のシンボル的な存在になりました。
5年の空白を経て復帰、
1978年には三度目の王座を手にしましたが
パーキンソン病を発症し1981年に引退しました。
今では当たり前になっている
「予告KO」のパフォーマンスを始めたのも
アリが最初のようです。
また長くなってしまいました。
m(__)m
「致知」の記事の内容は次回に (^^)