No.497
令和8年7月28日(火) 晴れ時々曇り
7月も終盤になりましたが
まだまだ暑い日が続きます。(T_T)
今回は度々、
ご紹介させて頂いている
人間学を学ぶ雑誌「致知」2026年8月号
特集「時務を織る者は俊傑に在り」から
前回のブログで
他力本願の本当の意味は
他人の力ではなく
阿弥陀様の力だということを
書かせていただきました。
今回もちょっと似たような感じです。(^^)
五木寛之さんの連載記事
『千年の名言 今を生きる言葉』より
今回取り上げられていた言葉は、
「諸神諸仏諸菩薩を軽んずべからず」
という蓮如上人の教えです。
一見すると、
「神様や仏様を大切にしましょう」
という意味に受け取れますが、
五木さんはさらに深いところを
書かれていました。
その中で紹介されていたのが、
「弥陀一仏(みだいちぶつ)」
という言葉。
五木さんは、
親鸞を始祖とする浄土真宗を
「選択的な一神教である」
と表現されています。
もちろん、
これは浄土真宗が
唯一神を信仰する宗教という意味では
ありません。
数ある仏の中から
阿弥陀如来の本願に身を任せるという、
その信仰の特徴を、
分かりやすく伝えるための表現です。
ここで少しウキペディアから (^^)
念仏の意味として
「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」は、
「阿弥陀如来に帰依します」
「阿弥陀如来にお任せします」
という意味があります。
宗派によって考え方は少し異なります。
浄土宗では、
念仏は阿弥陀仏を称え続ける実践として
重視されます。
浄土真宗では、
念仏は阿弥陀如来に救われたことへの
感謝の表れとされています。
阿弥陀如来が治める世界を
極楽浄土といいます。
そこには
老いも病もない
苦しみがない
誰もが安心して仏道を歩める
やがて悟りを開くことができる
という理想の世界が描かれています。
以上、ウキペディアより
「弥陀一仏」は
「阿弥陀如来だけを信じる」
という意味で
『念仏を唱えるだけで誰もが極楽に行ける』
と理解されることが多いですが、
五木さんは、
この言葉を全く違う視点で
書かれています。
阿弥陀如来ただ一仏を信じるのなら、
他の伝統的な日本の神々や、
他宗の仏を無視してもいいのか?
というに問題について
永年ずっと考えていたが
一般の真宗門を納得させる明快な説明は
なかなか見つからなかったそうです。
数十年、考えた末に
「わが母は一人である」
と考えることにした
と書かれていました。
自分を産んだ母なる人は、
この世にも、
あの世にも一人しかいない。
しかし、
自分以外の多くの人々も、
おのれを産んだ母がいる。
それらの多くの人々の母親も、
大事にし、
尊敬しなくてはならない。
すなわち、
わが母ひとりを大切に思ったからとて、
他の人々の母親を
おろそかに思うことなどあろうか。
確かに私たちには、
母親は一人しかいません。
他の誰とも代えることのできない、
たった一人の存在です。
母が自分を無条件に受け入れ、
信じ、
育ててくれたように、
阿弥陀如来もまた、
私たち一人ひとりを
分け隔てなく包み込んでくださる存在。
そんな思いが、
この一言に込められているように
感じました。
現代は、
多くの情報や価値観があふれています。
「あれが正しい」
「これが効率的だ」
と、
つい比較し迷ってしまいます。
しかし、
人間が本当に安心できるのは、
「この人なら大丈夫」と
心から信じられる存在が
ある時だと思います。
整骨院や介護の現場でも
同じことを感じます。
身体の痛みを抱えて来られる患者さんや、
日々を懸命に過ごされる
利用者さんが求めているのは、
治療や介護だけではありません。
「この先生なら話を聞いてくれる。」
「ここへ来ると安心する。」等々、
そんな信頼や安心感こそが、
人の心を支える
大きな力になるのだと思います。
だからこそ、
私も相手にとって、
少しでも安心できる存在であるように、
技術を磨くことはもちろんですが
まず相手を受け入れ、
寄り添う心を忘れずにいたいと
改めて感じました。
忙しい毎日の中だからこそ、
このような言葉に立ち止まり、
自分の生き方を見つめ直す時間を
大切にしたいものです。(ー_ー)
いつも長原整骨院のブログを
ご覧いただきまして
ありがとうございます。m(_ _)m